<管理栄養士インタビュー>平川あずさ 「管理栄養士と栄養士が、もっと自由に活躍する世の中にしたい」

人の役に立つ仕事で、大好きな食にかかわることを仕事にしたいと思い始める

 子どものころから料理上手の母の影響で、食べることにとても興味があったのですが、食を仕事にしようと考えたことはありませんでした。高校時代、何か人の役に立てる仕事がいいなと思い、将来は看護師を目指そうかなとぼんやり思い描いていました。

高校の夏休みに1日だけ看護師の体験ができるプログラムに参加しました。「憧れの白衣を着られる」ということが楽しみで参加したという感じです。それで実際に、病院で看護師さんについて回ることになったのですが、人の命にかかわる現場は想像以上に厳しく大変なものでした。また、運動部の練習で膝を痛めていたこともあり、立ち仕事を続けることも難しそうだと思いました。それで、あっさり看護師になるのをあきらめてしまったのです。

それから「やっぱり食べることが大好きだから、食を通して人の役に立てる仕事をしよう」と方向転換しました。母に持病があったので、栄養士の資格があれば、食を通して助けてあげられるかもしれないとも思いました。

 

「栄養士なんて無理だ」と思い、一般企業に就職

 そこで、高校卒業後は、短大の家政学科・食物栄養専攻に進みました。短大では調理実習が充実していて、和・洋・中一通り作れるようになりました。このことは、今でも大変役に立っています。

ところが、臨床栄養の授業を受けていたときに、「たった1人の献立を立てるだけでもこんなに大変なのに、病院に勤めて毎日何十人、何百人の献立なんてできるわけない!」と思ってしまったのです。何もしないうちから自分には絶対に栄養士の仕事は無理だと決めつけてしまって、卒業後は建設関係の会社に就職しました。一般事務として、それなりの仕事ができるようになり、社会人として、少しずつ自信がついていったと思います。

3年ほど勤めたころに、「私、栄養士の資格を持っているのに、もったいない」、という気持ちが強くなってきました。自分の専門性を活かせば、もっと人の役に立てるのではないか。そう思って、転職を決意しました。

 

小学校の栄養士として、初めて献立を立てる

 最初に面接を受けたのは老人ホームでした。そこでは、私一人に栄養管理一式を任せますよ、と言ってくださったのですが、何しろ実務未経験ですから、自信がなくて。どうしようかと迷っていたところに、小学校の栄養士の仕事を紹介してもらえたのです。短期間の産休補助の仕事だったため、それなら自分にもできるかもしれないと、引き受けることにしました。

学校栄養士の仕事は楽しかったですね。初めて自分が立てた献立をどんなふうに食べてくれているのか気になって、児童たちと一緒に給食を食べたり、食べた感想を聞いて回ったりしました。うちではどんな食事をしているのかをヒアリングしたりもしましたね。各家庭のさまざまな食の傾向を探りながら、献立を立てていたのです。今思えば、自分でも熱心な栄養士だったと思います。休み時間には児童たちとドッジボールをして、みんなと仲良くなっていました。

そんな充実した毎日を送っていたのですが、栄養士がこんなに面白い仕事なら、もう少し違う現場も経験してみようと欲が出てきたのです。これも勝手な思い込みなのですが、「栄養士なら、一度は病院を経験するべきだ!」と、今度は病院を目指すことにしました。

 

病院で働き、栄養士の職場環境の問題を実感

小学校での仕事ぶりを評価していただいて、そのまま職員になりませんか、とも言っていただいていたのですが、一度「病院で!」って思ってしまったら、決めてしまう性質なので、誘いを振り切って病院に転職しました。

最初に勤めた病院は、病院給食の最先端を行く、評判の病院でした。さまざまな病態の患者さんに、それぞれに適した食事を出すことで注目を集めていたのです。ところが、せっかく毎回何種類ものおかずを用意しても、おいしいタイミングで出すことが難しいのです。例えばサラダや和物は、時間がたつと水分が出て味が落ちてしまうので、和えるタイミングや、味付けを日々研究していました。「病院食をもっとおいしくしたい」という気持ちから、調理師学校に入学することも考え、実際に見学にも行ったくらいです。おいしくないとどうしても、食べ残しが出てしまい、栄養指導もうまくいきません。当時一緒に仕事をしていた先輩と、「どうしたら病院食はおいしくなるだろう」という話を毎日のようにしていました。

病院栄養士時代・厨房で。一番奥が本人。

 

この病院に3年ほど勤めたときに、手作りの食事を提供する20床ほどの病院の話を聞き、どうしても行ってみたくなりました。そこは臨床栄養に力を入れているしNCM(=Nutrition Care and Management・栄養ケア・マネジメント)も学べるというので、転職を決意しました。アルバイトからということで、条件は良いとは言えませんでしたが、勉強になることばかりでした。

その病院は、うわさ通り食事には本当に力を入れていて、市場に食材を仕入れに行ったり、焼きたてパンを作ったりもしていました。栄養面について本当に徹底して患者さんに寄り添っていて、他の病院だったら、まだ介入しないような状態でも介入することもありました。栄養補助食品などでも、良さそうなものは試してみるなど、常に患者のための最良を考える、柔軟な進んだ病院でした。

こうしたきめ細かな栄養指導により、実際に患者さんの病状がどんどんよくなっていくのを目の当たりにしました。ただ、ここまでやると病院が儲からないということも知りました。実際、病院の経営面は苦しかったようで、私たちの労働条件は改善されませんでした。

その後、おもてなしに近いような豪華な食事を出す病院に転職しました。そこでは食器も一流のものを使い、レストランで提供されるような、おいしい食事を毎回出します。ここでは、病気を治すための食事というよりは、患者さんが心地良く過ごせるような環境づくりということをメインに取り組んでいたように思います。そこで働くうちに、「栄養士として本当に私がやりたい仕事はなんだろう」と、悩み始めました。

そんなある日、屋上で休憩しているときに、1冊の専門誌が目に止まりました。それは、月刊「食生活」という明治40年創刊の栄養の専門誌でした。最新号をパラパラめくっていたら、「編集部員募集、栄養士歓迎」とあったのです。しかも応募締め切りが明日。これは運命だと思って、帰ってすぐに書類を作り、応募しました。

 

栄養士の現場で感じた問題点を共有したいと考え、出版社へ

 応募書類を出したら、すぐに編集部から電話があって試験を受けることになり、その後入社が決まりました。29歳になっていましたが、出版のことなど何も知りません。編集とは何をするのか、雑誌をどうやって作るのかもわからず、印刷のことも、校正のことも全く知らないところからのスタートです。毎日覚えることがいっぱいでした。

編集部に入ってからは、栄養士向けの企画を立てるときに、栄養士の経験がとても役立ちました。編集部に栄養士は私一人でしたので、現場にいる人にしかわからないことや疑問点などを編集会議で伝え、そうしたアイデアを記事にする方法を、編集部の先輩方から学びました。

私は3つの病院を経験しましたが、病院ごとに栄養士の職場環境があまりに違いすぎると感じていました。同じ臨床栄養と言っても、実践している内容は全く違うのです。それぞれに良いところ、悪いところがあるのだと思いますが、働いている栄養士さんたちには、自分の職場以外の状況を知る方法がありません。学会に出られるような立場の人なら良いですが、私たちのような毎日の業務で精一杯の栄養士にはそんなチャンスはありません。それぞれの職場の問題点を共有する場もありません。そうした現場で働く人たちに情報を届けられれば、より職場の改善に役立つだろうと感じ始めました。それで、出版社では現場に役立つ情報発信をしようと思ったのです。初めてインタビューをしたり、パソコンでレイアウトしたり、経腸栄養の最新の話題や栄養士に必須の数式の特集をしたり、自分なりに挑戦する毎日でした。この時期に、編集部の仕事と育児をこなしながら、管理栄養士の資格を取得しました。

月刊食生活・創刊100周年記念のイベントで 渡邊昌先生、近藤とし子先生と。

 

編集の仕事を通して、人生に大きく影響する先生に出会えた

 編集の仕事の魅力は、いろいろな人に会えることです。なかでも慢性腎不全の専門医の出浦照國先生との出会いは、私の人生に大きな影響を与えています。出浦先生は、食事指導によって、腎不全の方が透析に移行するまでの期間を延ばす先生として有名でした。しかし、食事指導に力を入れるということは、病院の経営面から見ると現実的ではありません。食事療法よりも透析療法のほうが圧倒的に儲かるからです。そんな中、患者さんたちのためにという気持ちを強く持って闘っておられる先生の姿に勇気づけられました。

私は、出浦先生の食事療法を受ける患者の食事を記録し、紹介する企画を連載し、その後、書籍にまとめました。この女性患者は腎不全と診断されたあと、先生の指導のもと、さまざまな工夫をしながら食事療法を続け、透析までの期間を延ばすことができました。こうした方たちから学んだことは、今の私の活動の原動力になっていると思います。

編集の仕事や、研究に疲れたときや、自分の仕事の意味って何だろう?と悩んだときには、出浦先生が「君は臨床の現場にいないと管理栄養士として役立っていないと思っているかもしれないけど、情報を発信することもチーム医療なんだよ」といってくれたことが大きな励みになっています。今でも、悩んだときには、出浦先生ならどんなふうに考えるだろうか、と思うことがあります。

左/低たんぱく食を実践した患者と、主治医・出浦照國の治療食の記録「おいしくて、元気」(カザン刊)右/明治40年創刊の栄養の専門誌「月刊・食生活」(現在は休刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国立健康・栄養研究所で編集の仕事に携わる

35歳のころ、国立健康・栄養研究所の理事長の渡邊昌先生から、雑誌を発行するからやってみないかと声をかけていただきました。渡辺先生が作られる新しい雑誌の創刊から参加できるということも魅力でしたので、食生活からそちらの編集部に移りました。

慌ただしいなか、編集部は渡邊先生と私一人。デザインまで自力でやり、なんとか雑誌「医と食」の創刊号が出版できたときには本当にうれしかったです。医療の現場で働く医師と管理栄養士の橋渡しになるような内容にしようと、約10年間がんばりました。

公益社団法人 生命科学振興会発行『医と食』。医師に栄養学を、管理栄養士に医学知識を普及することで、食事による疾病予防の効果をあげることを目的に、渡邊昌先生が編集長となり2009年4月に創刊。

 

働きながら、これまで培ってきたテーマを研究する

 「医と食」編集部では、雑誌を出しながら、さまざまな研究も並行していました。そこで、最低栄養必要量の研究や、断食と腸内細菌叢、玄米食などの研究を進めていました。それらの研究をもっと本格的にしてみたいという気持ちが強くなり、大妻女子大大学院・人間生活科学専攻博士課程に進むことにしました。

仕事をしながらの研究生活、博士論文の執筆は想像以上に大変なものでした。平日は毎日6時まで働き、それから自転車で大学院まで行き、夜中の2時まで研究するという生活を送りました。その間に育児や、家族の病気の看病なども重なり、私の人生のなかでもかなりつらい時期でした。

でも、博士論文を書き上げると同時に、これまでに携わった仕事、出会った人たち、栄養士の道に進ませてくれた両親や家族への大きな感謝が湧いてきました。そして、それがだんだんと管理栄養士としての自信につながってきたのだと思います。

大学院に通っているころから、内閣府の食品安全委員会事務局の技術参与を務め、現在はその仕事をメインに、他にも大学で食育の授業をするなどしています。

2013年上海で。高齢者疾病医学栄養治療討論会兼中日養老モデルと管理サミットフォーラムで介護食のレクチャー

 

管理栄養士と栄養士が、もっと自由に活躍する世の中にしたい

 私は、一般的な管理栄養士に比べると、学校栄養士、病院の栄養士、その他編集や内閣府の技術参与、大学の講師など、いろいろな職種を経験しているほうではないでしょうか。だからこそ、管理栄養士・栄養士が、もっとこうすれば活躍できるのではないかという問題もいくらかわかっているような気がしています。管理栄養士・栄養士はもっと自由に、いろいろなところで活躍できるはずです。

栄養士の働く領域は多岐に渡っており、時代と共に栄養のとり方も、栄養指導の内容も変化を遂げています。そういった意味でも栄養士が活躍できる場所はたくさんあります。ただそれは自分自身で切り拓いていくべきだと思いますし、専門知識をしっかり身につけていれば、他分野の人と交流しても分かり合えたり、学会で出会ったことがきっかけで、共同研究ができたり、意外なところから門戸は開けます。忙しいときこそ、少し立ち止まって、新しい世界に飛び込んでみてもよいのではないでしょうか。

管理栄養士や栄養士がさまざまな場所で、もっと活躍することで、多くの人たちの食生活が豊かで健康的である世の中になればいいですよね。それが本来の管理栄養士・栄養士の使命なのではないでしょうか。今の私に、栄養を軸としてどんなことができるのか? これからも枠にとらわれずいろいろな方向性を探っていきたいと思います。

2014年、アジア栄養士会議・ポスターセッション

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