コラム

おいしい笑顔の伝道師。おいしさのためには絶対に手を抜かない―管理栄養士・料理研究家 舘野真知子のキャリア遍歴とこれから

2022.4.28
#舘野真知子

目次
1 料理が好きで、手に職をつけたい!そんな思いから目指した管理栄養士
2 食材の大切さ、農業の尊さを知る
3 新たなフィールドにどんどん飛び込み、全力で駆け抜けた30代
4 料理と栄養の知識の融合が強みに。活動は日本国内にとどまらず世界へ。
5 「生活をする」という事を大切にしたら、発信できたこと
それは、「生活の中心は食にある」ということ
6 「好き」という気持ちは何よりも強みになる

料理が好きで、手に職をつけたい!そんな思いから目指した管理栄養士

私はぶどう農家に生まれ、料理を作り、人をもてなすことが大好きな子供でした。「高校まではいてよし、そのあとは家を出なさい。その代わりお前は自由だ!」父からそう言われたので、女性でも自立できる資格を取ろうと考え、高校卒業後の進路に、栄養科を選びました。
短大を卒業後、栄養士として病院に勤め始めました。のちに、管理栄養士の資格を取り、8年間病院で働き続けました。8年の間に3つの病院で働きましたが、病院で管理栄養士が関わる仕事すべてを経験しました。一番好きで、やりがいのあったメニュー開発はもちろん、食材の発注、栄養科計算、調理もしました。毎日食材を正確に計量し、大量の野菜を切っていた経験は、今でも活かされていると思っています。患者さんのカウンセリングは、困っている人に寄り添う気持ちの大切さを、医師とのコミュニケーションでは、勉強し続けることの必要性を実感しました。
というのは、今だから言えることで、当時の私は、モヤモヤした気持ちが心の奥にあり、「本当は何がしたいのだろう…」と常に自分に問いかけていました。
そんなある日、偶然みつけたアイルランドの料理学校。
 
これを見て、「ここに留学しよう!」と決めました。しかし、病院勤務の収入だけでは留学をするためのお金を用意することはできません。なにか良い手はないかと考えていた時に出会った喫茶店で、私が作ったケーキを販売してもらえることになりました。病院勤めをしながら、ケーキ作りをする日々は2年間続きました。その喫茶店では、今でも私のレシピのケーキがマスターの奥様の手によって作り続けられています。

食材の大切さ、農業の尊さを知る

やっとの思いでアイルランドの料理学校「Ballymaloe Cookery School」に留学したのは28歳の時です。
広大な敷地には農園やハーブガーデンがあります。鶏や七面鳥、丘の上には羊、豚、牛が放し飼いにされ、森からは地元の猟師がジビエを仕留めてきます。さっきまでそこにいた豚の姿が見えなくなったと思ったら、それが食材としてテーブルにのっていることもありました。黒い毛が残る豚肉を見てたじろいだものの、「あぁ、食材とは命をいただくものなのだ」と初めて実感しました。今では珍しくありませんが、野菜くずをコンポストにしたり、残った料理は鶏や豚の餌として利用していました。地産地消を意識し、何一つ無駄にすることなく、学校内外の農場で働く人々を尊重し、地元の経済を循環させていました。
この料理留学は、私の食に対する意識を大きく変えました。食材とは、空腹を満たし命をつなぐだけではなく、人の健康、環境、文化、そして平和すらも守る深みのあるものでした。そして、食材を生み出す農業というものは、とても尊い仕事だと気づかされたのです。
 

新たなフィールドにどんどん飛び込み、全力で駆け抜けた30代

一年間の料理留学を終えて、帰国した私に突然仕事がふってくることはなく、バイトをして食いつないでいました。フードコーディネーターとしてフリーランスで活動できるようになったのは、帰国から4~5年経ってからのことでした。このころには、誰もが見たことのあるバラエティ番組や、書店で手にとれるタレントさんのレシピ本などの撮影に呼んでもらえるようになりました。この仕事は、いつもテレビで見る有名人と会えたり、なかなか行けない場所に行けたりして、刺激的な毎日でした。料理や食材を使うときに、それらが綺麗に見えるように準備したり整えることが私の仕事です。アイルランドに留学して「食材の大切さ」を感じたのに、それとは全く反対のことをしているなという思いが、いつも頭の片隅にありました。
36歳の時、「Farm to Table(農場から食卓まで)」をコンセプトとしたレストラン「六本木農園(2015年閉店)」でシェフとして働くことになりました。生産者とお客さまが直接つながることのできるスタイルは当時とても珍しく、「日本の農業に風穴を開けることができるかもしれない」と、フードコーディネーターとしての仕事からは離れ、飲食業界に飛び込みました。
生産者とはまさに二人三脚で、日本の新しい農業の形を考えていこうとやりとりを繰り返しました。農家、猟師、酒蔵、醤油蔵、ワイナリー…と、生産者のカテゴリーは様々です。生産者に六本木にあるレストランまで来ていただき、生産者がお客さんに自分の生産物のことを話せるイベントをたくさん行いました。来てくださるお客さまは「おいしい料理を食べたい」という以上に、「生産者の話を聞きたい」「つながりたい」という気持ちが強いことが分かりました。
大分県にある「糀屋本店」9代目の浅利妙峰さんは、この頃出会った生産者の一人です。妙峰さんから差し入れでいただいたあま酒を飲んだら、体にすーっと入り、力になっていく感覚がありました。これは何?と驚き、あま酒に対する概念がガラリと変わりました。発酵の世界を追求するきっかけとなった出会いです。

シェフの仕事と同時に、週一回クリニックで糖尿病のカウンセリングの仕事を続けていました。栄養の情報は日々アップデートされます。栄養のことを学び続けたいと思っていたので、管理栄養士の仕事を継続しました。

料理と栄養の知識の融合が強みに。活動は日本国内にとどまらず世界へ。

体力の限界から六本木農園の仕事から離れたのは42歳の頃。これまで経験したことのない仕事の依頼が増えてきました。塩こうじが注目されるようになった頃から増えてきたのは、発酵食品に関連した書籍や、レシピ本の監修や著者の依頼です。発酵食品が注目されたのは、健康にいいという観点が大きいと思います。どのようにおいしく食べるかを伝えることは、私の得意分野です。それに加え、健康価値を伝えられたのは、管理栄養士の資格を持っていたからだと思っています。食育の仕事や、商品の新しい食べ方の提案の仕事なども、栄養の正しい情報を付加できる管理栄養士だからこそ広がった仕事だと思います。小学生のサマーキャンプのプログラムで、食育の講師をする仕事にも関わりました。目隠しをして出汁を飲んでもらい、“うま味”を体感してもらったり、魚をさばく体験をしてもらったり、企画を考えるところから子供たちにレクチャーするところまで自分の手で行い、何度やってもワクワクする仕事の一つです。
 
日本の食文化を海外の方々に伝えるチャンスもやってきました。
2015年のミラノ万博開催中に、イタリアにある料理学校で、日本料理を学ぶカリキュラムを作りました。イタリアでは、日本の家庭料理教室や、ちらし寿司・おむすびワークショップをしました。それらの仕事を通して、初めて外国人の親友ができました。料理は私の世界をぐんと広げてくれる手段にもなるんだと実感しました。

 
私の著書に、漬物を漬ける過程からできあがりを撮影し、漬物だけで全129レシピを紹介している「きちんとおいしく作れる漬物」があります。これは、食材の旬に合わせて一年かけて撮影した、特に思い入れのある書籍ですが、私の著書で初めてとなる翻訳本がアメリカの出版社TUTTLE社から発売になりました。自分の本は手売りに限ると、NYとポートランドの東西2都市をめぐるPRツアーをしました。翻訳本が出版されてしばらくすると、本を元に漬物を作ったという世界中の読者から、Facebookなどにメッセージが届くようになりました。レシピのように作ったのに、違うものができたというメッセージはいくつかありました。地域や気候によって発酵の仕方が変わってくるので、発酵食品はやはりおもしろいと新たな発見がありました。私は、本は手に取ってもらってからが勝負だと思っています。活用してもらって生きるものだと思います。世界中の人に私のレシピの漬物を楽しんでもらえるのは著者冥利に尽きると実感できました。

「生活をする」という事を大切にしたら、発信できたこと
それは、「生活の中心は食にある」ということ

現在住んでいる葉山にある家は、海岸まで歩いていける距離にあります。
家屋の隣には畑があり、ちょっとした農作物を育てることができます。ゆったりとした時間の流れ、豊かな自然は、驚くほど自分になじみました。これまで都心の高層マンションで漬けていた漬物は、葉山で漬けると違った味わいになりました。

これまでの、仕事に追われる生活が一変し、生活することに重きを置き始めると、地元での友人が増えました。すると、葉山生まれではないけれど、地元に根差す活動をしたいと考えるようになりました。そこで実現させたのが、夏の週末だけ開いたかき氷屋「甘氷屋」です。
夫や葉山の仲間といっしょに、訪れる人が葉山で過ごす夏の楽しい思い出を一つでもつくってほしい、そんな想いで始めました。自分がおいしいものだけを提供したいという気持ちで、私は商品開発を担当しました。
生まれ育った栃木の作物も知ってほしいと、名産のいちごや実家のぶどうなどを使ったシロップを寝る間も惜しんで仕上げました。開発したかき氷ソースは21種類生まれていました。夏の終わりまでに、1800杯ものかき氷でお客さまに笑顔を見ることができ、最終日には充実感で胸がいっぱいになりました。

「好き」という気持ちは何よりも強みになる

私がこれまでしてきた仕事は、好きなことばかりです。
一つ一つの行程に、もちろんあまりしたくない仕事もありますが、好きなことを実現するためであれば、どんなことだって乗り越えられるのです。好きなことを仕事にし続けるには、勉強し続けなければならないと思っています。私は料理を作る人として、もっとおいしい料理を作れる人になりたいと思っています。私は一流レストランの料理人を目指しているわけではありません。
食材には、生き生きとした力があります。命の輝きがあります。そこに食べる人を想い、愛を吹き込めば、さらなる煌めきをまとった料理になると思っています。私ができる限り手作りをしたい理由は、そんな考えからです。
私は「ままごと屋」というレストランを自宅で開きたいと思っています。利益を出さないでやるのを目指していて、その代わり作るものも食べさせる相手も自分が全部選ぶ、そんなレストランです。一番好き勝手なことをできるなら、何ができるだろうと考えた結果、思いついたことです。
お気に入りの場所に自分らしく根をはり、これからも多くの人と食卓を囲みながら、“口福(こうふく)”な笑顔を生み出していけたらと考えています。